
















新しく買ったEOS 5D mark II のファインダー,
広い広いと思っていたので,どのくらい広いのかを並べてみたのが上の図.
アイポイントとか視度補正とかの要素もあるので一概には言えませんが,
ファインダーの広さだけで言うとOM-1とちょうど同じくらいのスペックです.
・そもそも広い
+ファインダースクリーンもマニュアルフォーカス用(Eg-S)に換えている
+1.3倍に拡大するマグニファイヤーをつけた
ので,ピントあわせがものすごく楽ちんです.
こうやって見ると,APS-Cサイズとは全く違いますね.
というか,よく僕は20Dでディスタゴンのピントを合わせていたものだと思います.
1280×720p(24fps)なんだって!
最大撮影可能時間は5分間!
Motion JPGなんだって!
すごいかどうかは良く分からない!
でもボケが綺麗!ピント浅い!
そうなのよ!
撮れるならこういう映像を撮りたい!
映像撮りたい欲はないけど!
EOS50Dにも搭載されないかな!
5D後継機にこの機能が付いたら!
ディスタゴン35mmF1.4+NDフィルターで撮りたい!
でもこのサンプル、肌の色味が気に入らない!
もっとポジフィルム的な色にして!

73さんのphotshopなどについての記事を読んで、私は私の原理主義的な考えを書くことにしたのであります。
デジタル加工ばりばりな写真(いや、もう写創かもしれない)ばっかり作っている僕としては、
「この作品はどのような機材・手法で制作されたものか」
「この作品を私はどんな機材・手法で制作したのか」
よりも、
「この作品は何を見せよう・魅せようとしたものなのか」
「この作品で私は何を伝えよう、魅せようとしているのか」
を気にしてほしい、そして私も気にしたいな、と思うのです。
いわゆるphotoshop臭の強い"写真"は、
「加工にphotoshopを使ったこと」
をもってマイナス評価とするのではなく、
「見る人にphotoshop臭ばっかりを気にさせたこと」
「photoshop加工がダサく、変な調整であったこと」
をもってマイナス評価としてほしい。
問題にすべきは、プロセスそのものではなく、
制作者の技術やセンスの巧拙じゃないかしらんと。
逆に、制作者のほうも、一枚の作品を提示して、
「この写真のここがphotoshopぽいよね」
という感想を鑑賞者に先に持たせるようではだめだと思います。
「写真を撮る=カメラを弄ってシャッターを押す」ことと写真を定義するのであれば別ですが、
「写真を撮る=撮影して現像調整して発表する」ことを写真の定義とするのであれば、
私はその行為の目標全ては、
自分が提示した作品が、見る人にどういう印象を、衝撃を、感慨を与えることが出来るのか
を中心に考えるべきであり、
その目的達成の為にphotoshopが必要ならば躊躇なく使うべきで、
しかしその加工の結果鑑賞者に与える印象が変化しうる可能性を制作者は甘受すべきで、
制作した作品が鑑賞者に対して最も好く制作者の持つ"示したいこと"を表すものとなるべく動くべきだ、
と、私は思います。発表する=鑑賞者の存在を考慮に入れる以上、それが最低限の礼儀ではないかと。
もちろん趣味なので、制作者側は各自好き勝手やれば良い(フリーダムっ!!)と思いますが、
少なくとも鑑賞者として「ある手法を使ったこと"それ自体"をもって減点的評価を下す」ことは、
若干アンフェアじゃないかなぁと思ってしまうのです。

デジフォトで奈良に撮影会に行った。
死ぬほど暑かった。
最高気温36℃とか37℃ってあれでしょ?百葉箱の中の気温でしょ?
日光を浴びて照り返し受けたらヤバいって。超ヤバい。
行程中で飲んだお茶のペットボトル3本。ぐびぐび。全部汗になった。
若草山の山頂は風があって涼しいと思いきや、やっぱり暑かった。

"あしひきの山より出づる月待つと人には言ひて妹待つ吾を" (不詳、万葉集12-3002)
「山から月が出るのを待つ」って、
人にいいながら時間を潰してあの娘を待つ、
ですって。きゃー。なんて甘酸っぱい。

花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは!
と思いつつ、なんだかんだで枝垂桜が満開の龍安寺へ。凄い人。
なぜ10-22mmが故障したままなのかとものすごく後悔する。
そして、やっぱり35mmF1.4は35mmの画角で使いたいなぁと、
やっぱりそう思うのである。
こないだ梅田の八百富でEOS-1DsMk2が240k円で出てたりして、
バイトが一段落したら買えちゃうんじゃないかとか、
悪魔的な考えがふと頭をよぎる。いやいや、5DMk2を待つんじゃないのか。
来週の週末にある中間発表の準備があるから研究もすすめなきゃいけなくて、
こんなことをやっている暇は1ミリたりともないはずなのだけど、書いてみる。
まずはすべての事象についての話から。
外的価値には三種類あると思う。
一つは個人の評価が積み重なって出来上がった、積分的価値。
「みんなが”これは良いね”って言ったから、これは良いものとされています。」
もう一つは、客観的価値をもっているとされる"権威"による権威的価値。
「この偉い人が"これは良いね"って言ったから、これは良いものとされています。」
そして、客観的スペックによる、数値的価値。
「この基準を満たしているので、これは良いものとされています。」
一方、内的価値がある。
「これは俺が”良いもの”としたものなのだから、誰が何と言おうと良いものだ。」
これは主観的価値。これを妨げる権利も義務も、他の人は全く持っていない。
でも、これは自分の中の価値。他の人もそう思っているかは分からない。
「私はこれを”良いもの”と思ってますが、貴方はどう思いますか?」
ちなみに、主観的価値を理由にして、他人の主観的価値を攻撃すると、
往々にしてその主観的価値を持っている人への人格攻撃になって喧嘩になる。
「なんでお前はこの良さが分からないのだ!?これが分からないお前は屑だ」<この部分
こうなると行き着く先はチキンレースと潰し合い。誰も幸せにならないのでほどほどに。
さて、内的価値の決まり方にはたぶん二つあって、
ひとつは、内発的な感情の振幅から発生した”良い”という評価=内発的内的価値。
「これは、すごく心動かされた。これは、良いものだ。」
もうひとつは、外的な評価に基づいて判断した”良い”という評価=外発的内的価値。
「良いものとされているから、これは、良いものだ。」
そして、内的価値が決まって、それがまた外的価値になって、それが各個の内的価値になって…
とぐるぐる行ったりきたりを繰り返して、価値というものがゆるやかに変容を繰り返しながら決まっていく。
たとえば、人気投票で分かるのは、このうち、「みんなが"良い"」とした積分的価値。
たとえば、コンテストで分かるのは、このうち、「偉い人が"良い"」とした権威的価値。
たとえば、品質検査で分かるのは、このうち、「基準から”良い”」とした数値的評価。
さてどれが真の客観的価値だろう?真の客観的価値ってなんだろう?
僕らは何の価値を重視すべきだろう?
メーカーがモノを作ることを考えるなら、話は単純で、人気投票で積分的価値を測って、それを数値基準に落とし込んで、
数値評価をクリアするモノをつくって、売って、そして権威的評価をもらったりして、それでみんなの内的評価を変えて、
また人気投票をして…。
写真は、どうなんだろう?
写真を撮って人に見せて、感情を振幅させて、これいいねって思ってくれる人がじわじわ増えて、そういう人がいっぱいになって、
そしてあるとき”偉い人”に「すばらしい」って言われて箔がついたりして、そうして、この写真はすばらしいという価値が固まる。
これも、間違いなく客観的価値。
人気の写真をみて積分的価値を計って、それをみて傾向と対策を練って、人気の見込める写真を撮って、見せて、
そしてみんなからfavをもらって、いつしかその人が権威になって、その人が”良いね”って言った写真を撮る人に、
みんなが殺到して、その人も人気になって…。
それも、間違いなく客観的価値。
義理人情の世界に引きずり込んで、とにかくいろんな人とのお付き合いを繰り返し、お付き合い的な評価を積分させて、
いつのまにか、みんなが”良い”としたことになっているという外的価値を発生させ、創り出したものにむりやり価値をつける。
それも、間違いなく客観的価値。
表現は、価値の創造の一種なんじゃないかなと思う。
僕らは、そもそも、写真を撮ることで、いや、写真を他の人に見せることで、何がしたいんだろう。
僕らは、どちらの内的価値に基づいた写真を撮って、どういう外的価値を作り上げていくべきなんだろう?
僕らは、価値の創造によって、何を得たいんだろう。

火の粉がいい感じの玉ボケになるように待って、
絞りや距離やシャッター速やISOを変えてたら同回生に変態扱いされた。
カメラを構えてずっとシャッターを切り続けてる動作が、
「あっちの世界へ行っちゃった人」のそれだ、っていう感じなのだとか。
テーマ展示はやっぱりきなこ嬢の
『愛のように熱く、人生のように苦い』(タイトル)
が圧倒的人気かつ実力でした。
僕も同じ方面から攻めて行ったら歯がたたないので、
別の方から攻めていこうと思います。頑張ります。
久しぶりに会ったサークルのOB会では、
友達が彼氏と「あの人といると勉強できないから」という理由で別れていたり、
職場の年上の女性と4月に結婚することになっていた友達がいたり、
就職か進学かで悩んでいた友達がその知らせを聞いて就職に傾いていたり、
「周りの女性社員がみんなおばちゃんだ」と生保に勤めた友達が嘆いていたり、
銀行に勤めた友達の同期が一年目にして自殺したという暗いネタを聞かされたり、
テレビ局に勤めた先輩がすっかり業界人っぽい雰囲気に変わっていたりなどなど、
いろいろとありました。
ということで、
学園祭終了!
さぁ、研究けんきゅう、と意気込んだものの、
今週の木曜金曜は学会の手伝い(バイト)、
日曜は大阪モーターショー、
それにそろそろ就活に動かないとマズかったりと、
なかなか進まない感じです。
果たして無事に年を越すことができるのでせふか。
行きました。従妹の結婚式です。
新婦側は親族がいっぱい来ていました。
ええっと、いつもこれをみんなに話して混乱させるのが楽しいのですが、
文字に書くとえらいややこしい。これからホントどうでも良い話。
<新婦側親族>
N家→新婦の一家。私の父の妹の家族。
I家→新婦の叔父の家族。私の一家。
K家→新婦の叔母の家族。新婦の叔父の妻の弟の家族でもある。
つまり、私の父方の祖父母家族、母方の祖父母家族とも三人兄妹でして、
父方:長男、長女、次女
母方:長男、長女、次男
なのですが、
父方の長男(私の父)と母方の長女(私の母)が結婚しているうえに、
父方の次女(私の叔母2)と母方の次男(私の叔父2)が結婚していると。
また、
父方の長男(私の父)と母方の次男(私の叔父2)が大学の先輩後輩、
父方の次女(私の叔母2)と母方の長女(私の母)も大学の先輩後輩、
父方の長女(私の叔母1)と母方の長女(私の母)は高校大学の同級生で親友同士、
さらに、
父方の長女(私の叔母1)一家の長女(私の従姉1:今回の新婦)と、
母方の長男(私の叔父1)一家の長女が一番の親友(本人談)だとか、
もうなにやらよく分からない状態なのです。
以上どうでも良い話。
で、結婚式の撮影を頼まれていた(本職の方は別に撮影してる)ので、ばしゃばしゃ撮る。会場暗いよ。
tommyさんがnaguneの写真展で作っていたbookの(中身もさることながら)装丁がとっても良い感じだったので、
あれでブックを作って贈ることにする。
土曜日挙式で、日曜日には遅い朝を食べた後、その場の思いつきで「東京都写真美術館」へ。恵比寿なのですね。
2Fが東松照明の展示。前半は、和製ブレッソンみたいな感じ?後半の静物の方が良かった。
ゴールデンマッシュルームとか、プラスチックスとか。
3Fは昭和写真。2Fの前半の展示とかぶってんじゃん。
これも最近のコンセプチュアルな作品の方が私の好みに近かったかなぁ。
B1Fはキヤノンの写真新世紀。
素敵なのだけど、なんだろう、自分の人生を切り売りしてる人が多いような。
時代の中に不安を感じる中で不安定な小さなところに拠り所を見出す自分、
みたいな写真が多かったように思いました。
そうじゃない写真の方に強く引かれる僕は、
他人との間に距離とか壁を作りたがるタイプです。
そのあと渋谷ルデコの「それぞれ ノ あかり」展へ。
趣味として写真をやる範囲だと、控えめに言っても非常にレベルは高いと思うものの、
表現として写真をやるという観点で見ると、どうなんでしょう。
"言いたいこと伝えたいことがある"というよりも、素敵な風景を素敵に切り取った展示。
それはそれでアリだと思うんだけど、「で、これでなにを伝えたいの」と思うのもちらほら。
また、その逆に、圧倒的イメージの迫力で押し切るのという方法で行くのは、
私はアリだと思うのですが、
それが出来そうなteikoさんもhosakaさんも、見せ方がちょっと…という感じでした。
(hosakaさんは画像の流麗さで魅せた方が良いと思った。teikoさんは欲張りすぎで主張がボケてた)
個人的に好きだったのはgoさんの家族写真の醸し出す牧歌的で小市民的幸せ。
あの典型的な家族の幸せ感は、きっと確信犯(誤用じゃないほう)だ。
うーん。自戒が入るなぁ。
ルデコにいたクラリスさんとニノさんと一緒に、次にプラチナプリント展へ向かいました。
tommyさんがVOXで紹介していたやつ。
行きたいなとは思っていたものの、一人では行けないかなと諦めていたから、とってもラッキー。
伝えたいイメージと内包させたいメッセージ、それを伝えるためには何を重視してどう扱えば良いのか。
それらを熟知しているからこそなのでしょうか、
決して大きなサイズではないものの圧倒的な迫力をもって迫ってくる作品が多かったです。
デジタルやモニタによる表現では、鑑賞者側、作品製作者側双方の理由から繊細な表現が難しくなると思うのですよ。
だからデジタルやwebでは、繊細さによる表現を用いない方向での作品製作に行きがち(少なくとも私はそう)なので、
ついついインパクト重視の、解像度や色調に限界の多い条件下でもはっきりと主張できるものを作りたくなる
(よく言えばロバスト(頑健)なのですけれども)私としては、とってもとっても新鮮で、衝撃的な作品群でした。
クラさんとニノさんのどちらがおっしゃってたか忘れたのですけど「webで見せても何も伝わらないよね」的な意見は、
たぶんその表現手法の繊細さ(それはそのまま表現されているものの繊細さにも繋がる)によるものなのかしらんと。
ディティールに神が宿るというのは、これを見てるとものすごく実感できました。
デジタルでこれを表現する方法はないのかなと思ったけれども、むりかなぁ…?
ものすごく欲しい欲しい作品があったのですが、ninoさんはさくっとご購入されていたのですが、
私は衣食足りて礼節を知る。少なくとも、親の脛を齧ってる時にはやめておきます。自立してから。我慢。
好きだった作品は、hamagikuと、Insects on Seed(見せていただいたコロタイプ印刷による"Time"というbookから)。
実は日曜日が私の誕生日、ということで東京駅近くの中国料理のお店でお夕飯をご馳走になってしまいました。
ninoさん、ご馳走様でした。美味しかったです。礼。
最終の新幹線(N700系だった)で京都に帰り,そして今日に至るというわけなのです。
[写創です]アンフェアは多そうですけど、... read more
on 写創